アラトジョウシ
天正六年(1578年)三月、上杉謙信の急死後、上田長尾家出身の養子景勝と、小田原北条家からの養子景虎との跡目相続の争い(通称、御館の乱)が起った時、小田原勢の侵攻を防ぐため上杉景勝が、深沢利重、富里三郎左エ門等に命じて急拠
築かせたものといわれ、南魚沼郡誌には次のように記されている。「天正六年上杉景勝、景虎と家督を争う時に上杉景勝は景虎の援軍として、北条氏政より遣せし小田原勢を防禦す
る為、同年七月坂戸の城将、深沢刑部、樋口主水に命じ、特に登坂与右エ門を遣し、関東境の要害の地に現れる荒戸に築城せしめたり、同年八月下旬北条氏よりの援軍樺野沢城に拠るや、登坂右エ門嫡子与五郎、同姓神兵衛等、荒戸城に在りて日々これと戦へり、其後天正九年二月三日、富里三郎左エ門、逆徒擾乱の際忠勤を励みたる賞として景勝より荒戸在城を仰せ付られ、食録を加へらる。次で同年二月二十八日、樋口与三右エ門、同年六月三日栗林肥前守政頼、何れも荒戸在城を命ぜられたり。」また、天正十二年(1584年)栗林政頼は郡司(郡奉行)に任ぜられ、荒戸城の関所を通る人や物資から関税を徴税することを景勝が命じている。その後この関所は堀氏、高田藩、幕府直轄の江戸時代を経て、明治初年まで存続した。
八木沢口留番所となり、関東口の取締りに任じて来た。
昭和四六年六月一日湯沢町文化財に指定され、次いで昭和五十一年三月三十一日新潟県文化財の指定される。
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